1992/11 百年祭を迎える

 もうすぐ百年祭を迎える。「迎える」と「向かう」は同語源。無関心であったり、逃げ腰になったりしていては「迎える」にはならない。
 百年祭の主役は一体誰だろう。天地金乃神様?初代先生?それとも祭典を司る祭主か。形の上ではまあそんなところだろう。だが本当の主役は、私達一人一人ではなかろうか。自分自身が百年祭を通して神様とどう関わるか──。神様が最も問われるのはその点であろう。
 人生に殆ど影響を及ぼさない単なるイベントに終わるか、それとも大きな意味を持つものになるかは、前々からの取り組みようで決まるだろう。準備作業に一度でも汗を流した人、たとえ御用奉仕に加われなくとも、いつも気にかけ続けてきた、そういう人が迎える祭典はひと味もふた味も違っているはずだ。

1992/10 美人多し

 「この付近美人多し。徐行されたし。」こんな標識を見て思わずブレーキを踏んだことがある。「死亡事故発生地点」と脅しても、この標識にはかなうまい。押しつけず、見る者を和ませてくれるところがいい。そういえば「ゼニ以外、持って帰れ」という、ゴミのポイ捨てを禁じるユーモラスな標識もあったっけ。
 こんな標識は見る者に書き手を意識させる。どんな人がどんな願いで書いたのか──。するとその人の骨折りに敬意を表して、ここはひとつ言われたようにしておくかという気も起きてくる。
 しかし逆を言えば、普通の標識に、作った人、設置した人の姿や願いが見えないのは、見る側の想像力が足りないせいでもある。
 百年祭時に史料集が出される。活字の奥に初代先生の姿が生々しく見えるかどうか。

1992/9 鰯の頭も…

 ある時村の若い者が観音様へ参るというのでお守り袋をことずけた女があったそうな。若者は観音様の前に鰯の頭が落ちていたのを包んで持ち帰り、女に渡した。女はそれを一心に拝み、おかげを頂いたんだと。若者は妙なことだ、あれは鰯の頭だと言う。開けると確かに鰯。女はハッと心をとがめ、それからはどう拝んでもおかげがなかったそうな──。「信じる者こそ救われる」という言葉も蓋し真理かも知れぬ。
 先日統一教会の合同結婚式や霊感商法の話など放映されたが、迷信、盲信、そして自信が昂じて過信も困るなあと眺めながら、そういう自分の背信の日々に後ろめたさを感じたことである。
 「信というは任すと読むなり。他の意に任するが故に人の言と書けり」。一遍上人の言葉に信心が問い直される。【く】

1992/8 参議院選挙

 参議院選挙なんてくだらない。タレントやテレビで馴染みの大学教授が顔を連ね、まるで有名人の人気投票だ。比例代表は特にそう。顔が売れているだけで出場資格がもらえる。政治手腕なんかはどうでもよいらしい。
 そんな低質な参議院に何が期待できるか。投票率が低い割に開票速報だけは誰も彼もが見たがるのは、プロ野球と同じ感覚だからだ。誰が勝ったからって、どうってことはないけれど、なぜか面白いのだ。
 比例代表のミニ政党の中には政見放送をちゃっかり布教に利用した宗教もあって、安くテレビに出たなあ、賢いなあと感心したのもあったが、それだけは楽しかったよ。ああ、くだらないくだらない。
 忙しさに紛れてうっかり投票しそびれ、国民の責任を怠った筆者の、半分言い訳、半分ホンネ。

1992/7 手の表情

 車で渋滞の列に入り込んだり、右折したりする時、止まって道を譲ってくれる親切な車がある。「ありがとう」の代わりにプッと軽く警笛を鳴らして通る風景は、見る者にも心地よい。
 しかし道を譲る時の仕草は人によって様々だ。一つは蝿を追うように手で扇ぐタイプ。「邪魔だ、シッ、シッ」と言われたような気分になる。また指を差して進行を促すタイプ。「行け」と命令されたような印象を受ける。ところが手のひらを上に向けて差し出されると、「どうぞ」と優しく言われた感じ。
 人に物を渡す時にも、下から支える「捧げ持ち」と、上から吊す「授け持ち」とがある。両手で渡すのと片手で渡すのとでも、ずいぶん印象が違ってくる。
 人を大切にする心は、こんなちょっとした手の表情にも現れるものだ。

1992/6 赤ん坊

 赤ん坊は不思議な力を持っていて、どんなイカツイ顔の筋肉も緩ませ、難しい理屈屋にも幼児語を話させ、居ながらにして大人どもをアタフタ動かし、無償の世話を焼かせることができる。大人にこんな真似はできっこない。こういう力を「徳」なんて言うのだろうか。
 でも中には、赤ん坊が嫌いで見るのもイヤという手合いもいる。そんな人にとって赤ん坊のこの力は無いに等しい。してみると「徳」は赤ん坊にあるのでなく、赤ん坊を見て心を和ませる大人の中にあるとも言えるだろう。
 神と人もよく似ている。「神徳」は天地金乃神様にあるのか、それとも天地の恵みに感動し、それに応えずにいられない人の心にあるのか。
 赤ん坊が「神様みたいな顔」だなんて言われるワケは、この辺にあるのかもしれない。

1992/5 ミネラルウォーター

 水道水のカビ臭さが増すこれからの季節、都会ではミネラルウォーターが飛ぶように売れ始める。ミネラルとかナチュラルとか銘打てば、ただの井戸水や山の水がガソリンよりも高く売れるのだからメーカーは笑いが止まるまい。
 中には“六甲のおいしい水”を風呂に使う人までいるというから仰天する。そんな例は論外だが、都会の水道水のまずさは確かにタダモノではない。おまけに発癌性まで指摘されている。この問題の原因はやはり原水の汚染。そしてその六割強は生活雑排水によるという。
 空気、水、光、緑の環境……。それらはかつて、皆タダだった。それを当然視し、軽んじる生活に、今、厳しく反省が迫られている。
 「人から出る日給はわかっても、神から出る日給はわかるまい」と金光大神は言う。

1992/4 信心の「継承」

 「信心の継承」という言葉がよく使われるが、厳密に言えば信心は継承するものではない。親の信心に触発されて、子の中に独自の信心が芽生えることを、手っ取り早く「継承する」とか「伝える」とか言っているのである。
 「息子も嫁も今はお参りしないが、私たちの代になればお参りするから心配するなと言ってくれます」と嬉しげに語る人もいる。形骸化した「家の宗教」を引きずることが必ずしも信心になるとは限らないことを肝に銘じておく必要があろう。
 信心は人に代わってしてもらうことのできないきわめて個人的なもの。神様に心を向けた生き方に、大人も子供もない。まして年をとればとるほど感性は鈍り、頭も堅くなって新しい考えを受け入れにくくなる。家族の信心は、今どうなっているだろう。

1992/3 悪習を断てるか

 バレンタインチョコというものは、世の男たちにとって必ずしも嬉しいものではないらしい。ことに職場で上司が女子社員からもらうチョコは、いかに義理チョコとはいえ、相手はエビでタイを釣る魂胆。一ケ月後には三倍返しぐらい実行しないとケチ呼ばわりされるとか。
 この悪習はどうすれば撲滅できるか、という議論をある雑誌で読んだ。ホワイトデーをバレンタインデーの前に持ってくる、グリコ事件を復活させる、二月十四日を祝日にして会わずに済むようにする、などの珍案が連なったが、いずれも実現の見込み薄。人が止めないと誰も止められないのである。
 国民のアイドル、きんさんぎんさんみたいに「バレン……?わからん」などととぼけて済むまでには、やはり百年の年の功が必要なのだろうか。

1992/2 喪中につき

 近年金光教内では、喪中でも年賀状を出すことが少しずつ増えているようで好ましい。今年もよろしくと挨拶するのが失礼であるわけはない。まして人が死ぬのもおかげの中でのこと、忌み汚れはない、という信心の立場からは当然のことだ。
 それでもなお、昔ながらの慣習に何らかの意味を感じてか、常識がないと思われるのを恐れてか、年末には「喪中につき…」の葉書も多かった。
 そもそもあの断り状は何のために出すのか。世間には喪家からの賀状を不吉に思う人もあるから出し控える、というのはまだ分かる。しかし賀状をくれるなと断る理由はいったい何なのか。
 「変人になれ」と金光大神は教えた。信心を行動に現すのはじつに勇気がいる。だが、行動に現れない信心にいったい何の意味があるだろう。

1992/1 小人物の一人として

 「孔子は一生こつこつと地上を歩きながら、天の言葉を語るやうになつた人である」。下村湖人は孔子をこう絶賛する。孔子の言葉が諺や熟語となって日本語に溶け込んでいるところを見ると、やはり偉大な求道者なのだろう。
 しかし筆者はどうも孔子が好きでない。口を開けば君子はどう、小人はこうと、人間を二分してものを言う。それで奮起できる人はよいが、世の中には「そんなふうに小人を切り捨てるのが君子なら、俺は君子になんかなりたくねェよ」とすねてしまう私みたいな小人もいるのだ。
 教祖様が好きなのは、小人の立場から語りかけて下さるから。そして小人の可能性に目を開かせて下さるから。
 今年、どんなすばらしいことを神様はさせて下さるだろう。人も自分も見くびらない一年でありたい。